昭和43年11月3日 朝の御理解

 御理解 第65節
 「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。」


 今月の信心の素晴らしい信心であるということを、うーーん、有り難い信心であるという事を、分からして頂くような御理解ですね。うーん、信心をしておって、かえって、えー窮屈になるというような信心があります。まして、信心がないならこの世の、おー、いわば有り難い、日々を、有り難い日々じゃない、有り難い世の中ではない、えー窮屈な世の中、あー、にしてしまうような生き方が、を、(?)なければならんのですけども、金光様の信心をさせて頂いて、だんだん本当なことが分からして頂くと、このみ教えが素晴らしいという事がわかってくる。いや、うーん、自由自在というか、ね、自由無碍というか、そういう心で、生活が出来る。その、いうならば、いつも有り難いという生活が出来ると。ま、この、うーん、65節に出ております、えー、このところを頂かせて頂きましてもでもですね。
 例えば、「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。」というように、たとえば、様々な、あー、行事をよい日柄を選ぶ、ね。特に結婚式なんかには、黄道吉日というて、よい日柄を選ぶ。家を建てるにいたしましても、うーん、家相に、ここ、建てた方が使い勝手が良いのだけれども、家相が悪いから、こう建てねばならん。ね。色々そこに、窮屈な考えというものを、おー、ま、間違いであるということを教えておられる。使い勝手の良いのが良い家相じゃと。まだまだ、今日は天赦日じゃというように、ような日であっても、ね、雨風が強うては良いじゃないと。ね、ですから、いうならば、いつも良い日だと。自分に都合の良い日が良い日だと。簡単に、もう、無造作に説いておられますね。教えておられますけれども、私ども人間は、よりよい幸せを願い、または、願うあまりにです、ね、普請をするには家相を見たり、結婚するには日柄を見たり、これは、普請作事とか、結婚とかというだけのことではありません。
 けれども、ま、それは一番強く、そういうようなことが、現在、ま、行われておりますから、そういう例を持って申しましたんですけれども、実に、不自由なことでございます。ね、私がここに思いますことはね、それはただ、結婚とか、普請とか、例えばなら、どんなに良い家相の良い家だからというて、火事があったんでは、良い家相じゃなかった証拠。ね、どんなに良い日柄を選んで、結婚式を挙げたところで、ね、夫婦別れをしたり、早死にをしたり、したんでは、それは、ね、何にもならない。良い日柄を選んだから、相性をみてから、結婚したから、幸せとは限らない。ね、そういう、いわば( ? )もつかないことに、私どもは囚われて窮屈な、自分で自分の首を絞めるような、生活をするということはね、これは、どういう、そういうことだけじゃない、すべてのことにそうなるのだと。ね、いわゆる、不自由。全てのことに不自由をするもとになる。難儀をしなければならない元になる。自分をいよいよ困るところへ、押し込んでいくような、あーことになる。ね、家相とか、日柄とか、ね、家を建てるとか、結婚とかというだけのことじゃない。もう、生活の全般にわたって、不自由なことになってくる。ね。ですから、金光様のご信心をさせて頂いて、ほんとに、その、というかね、例えて、一番最後のところにね、「日のお照らしなさる日に良い日悪い日はないと思え」とこう、おっしゃる。
 日の照らない日はありゃしませんよね、毎日、お天道様のお働きを頂いておる。そういう働きを、そういう天地の働きを頂いておる、と、日にですね、悪い日はあるはずはないと信念する生き方なんです。これは、日だけではありません。ね。日々、ね、神様のお恵みの中にあって起きてくる全てのことが、ね、良いこと、悪いことはないと思え。すべてがおかげぞと、すべてが神愛ぞと。教えておられると同じこと。ね、ですから、ここのところを、たとえば、ここに言葉に出ておる言葉だけ、ね、日柄方位とか、良い家相じゃとか、ね、と言ったようなことだけではなくて、ね、金光様のご信心のいうなら、根本的なところを分からなければならないというのは、ね、もう、日々が有り難い日であり、全てのことがありがたいことである。自分では困ったことだと思っておる、難儀なことだと思っておる。けれどもそうではないのだと。
 私、昨日、風邪をひいて少し、頭が痛かった。で、夕方から休ませて頂いて、夕方から休んどるもんですから、肝心な、あー、時間になって眠れない。眠れないまま、ま、色々なことを考えさせて頂いたんですけど、んー、よく、例えば、痛いとか痒いとかと言うてもね、生きておるしるしじゃ。生きておるしるしじゃから、あー、ね、頭が痛かっても、ありがたいのだと。死んでしまえば、痛いも痒いもないのだから。痛い、痒いを感じておることは、生きておるしるしじゃないかと。あー、ほんにそうだ、生きておるしるしだと思うて、有り難う思うというけどね、そういう考え方は間違いだと私、昨日思うた。何故って、そういう考え方をするから、いわば、死ぬことが怖いことになり、嫌なことになるのだと。ね。生きておるしるしだと思うから、ありがたい、なら、それは、( ? )と死ぬることは大変困ったことだ、ということになる、ね。
 私どもは、それは、頂けておりませんけれど、そこを頂きたいと願っておることはです、ね、生きても死にても、天と地はわが住みかと思えと、こういうようなことが、心から分かりたい。そこに、ね、死の恐怖もなくなる。ね。死ぬるということが困ったとかね、難儀とかいわゆる、悲しいことではないのだ。本当にいわば、あの世に誕生するのであり、いうならば、この部屋から、向こうの部屋に行くようなものだ。ね。障子、開けたら、もう、向こうはいうなら、あの世と。この、この世を、ここの例えばお広前をですよ、ここのお広前をこの世とする。ね、するならば、障子をしている、向こう、開けたところが、あの世であるように、あの世じゃないですね。
 えー、昨日、( ? )先の世です。ね。先の世ならです、あの世と言うとですね、つながっていないような感じですね。あの世と、あっちのあの世。あの世じゃない。ね。次の世。いわゆる、次のものなんだ、次のもん。ね。教祖はあの世と仰ってないですね。次の世と、先の世と仰った。ね。この先の世なのだ。いうなら、この世におることだけが、ありがたいかと、いうようなことだから、いわば、医者から見離されたという、いうことになったりすると、嘆き、悲しまなければならない。あー、死にたくない、死にたくない、という生に対する執着が、いよいよ、苦しめる、自分を苦しめる。ね。生きることも死ぬることも、みんなもおかげなのだと。それは、ね、いう、あいげつ、行くの苦しみという、ね。愛するものと別れなければならない苦しみ。
 これは生身を持っておるから、親子と別れ、ね、この、この、うーん、( ? )一つ別れ、永遠の別れになることですから、それは、悲しいことなのですけど、死ぬることそのことは、実は悲しいことではない。言うならば、あの世へ誕生するだけのこと。いわゆる、次、次のもん、先、先の世にまだ、進んでいくだけのこと。困ったことじゃない。私はね、信心のぎりぎりのところはね、そこんところ、もう、人生利益ということを申しますね。この世だけでのご利益。金光様のご信心を、ある人がその、やはり行政利益だと、あまりにもおかげを頂くものですから、ご利益がはっきりしておるもんですから、行政利益だけの信心のように。ところが金光様のご信心はね、この世でご利益を受けたら、そのご利益がです、あの世までも繋がっていくというご利益でなからなければ、本当のご利益ではないのだ、本当のおかげではないのだと、教祖は説いておられます。ね。いわゆる、この世でありがたいという心を開いておかずば、ね、先の世に幸せはない。この世でのありがたいものが、あの世にも繋がっていくのであり、いわゆる次の世。ね、先の世にも繋がっていくのである。だから、どうでもこの世で、ありがたいという心を開いておかなければならないためにもです、この65節のこの表面にでておるところはなおさらのこと、ね。
 この表面のもう一つ深さというところに触れていく。私どもの、住まわせて頂いておる世界には、日柄もなからなければ、方位もない。良い日もなからなければ、悪い日もない。ね、いうなら、氏子の自由、自由自在使い勝手の(?)ね、それを私どもは、それも、よい、よりよい幸せになりたいというその一つの欲望がですね、日柄を見たり、ね、家相を見たり、それに類するような生活をして、いよいよ、生活、その困った、困ったというか、窮屈な生活ということは、いわゆる困った生活に、不幸な生活に、自分で自分がそういう中に入っていってしまうような生活をしておる。そういう生き方は間違いなのだ、と教祖は教えておられるわけです。この世の中には、悪いことや困ったことはないのだと。
 私は、そのー、ね、ここのところ私は、本当にあの、お互いがもういっぺん、あのー、自分達の信心を検討しなければいけないということですね。頭が痛いと言うても、そりゃああんた、生きとるしるしじゃから、ありがたい、御礼申しあげにゃ。なるほど、ただ、人生利益だけのことからいうたらですね、それは素晴らしい、たとえば悟りであるですけどもね。そうでしょうが。あー本当に、生きとるしるし、頭が痛いのも、苦しいということがあるのも、生きとるしるしだと、こういうのですよね。ところが、人生利益だけじゃいかん。私どもの場合、一日一日というか、刻々、その嫌で怖い、死にたくない、その死に向って進んで、毎日進んでいきよるとですよ。当然、いっぺんは、私共は入っていかなければならないのです。その死に体験しなければならん、直面しなければならない、ときに、死にたくない、死にたくないと言ったって、死んでいかなきゃならないのである。
 それよりか、障子を開ければ、先の世につながっていけれる、いわゆる、有り難いこの世が、そして、先の世までも繋がっていけるという安心をもって、あの世に、本当に、あー心やすしと言うて、えー、あの世に誕生していけれる。先の世に行けれるおかげをです、頂いておるということが信心なんです。ね。してみると、おー生きておる印、苦しいことも痛いことも痒いことも生きておる印だから、あ、生きておる印じゃから有り難いとそこを悟っと、そういう悟り方をするから、生きてるおることは有り難いのであって、死ぬることは悲しいことだ、苦しいことだになってしまう。ね。だから、例えば、頭が痛いということも、いうならば苦しいこともです、その苦しいことも、ね、生きておるから有り難いのではない、ね、その苦しいことも有り難いんだと、分からしてもらう。いわば、降る日も照る日も有り難いんだと分からしてもらう信心を極めていかなければならんのです。
 この65節は、そういう深いところに、もう、おー、触れていけれる御教えでございますね。そこです、ね、そこで、そういう信心を分かせて頂くためには、どういう信心をさせて頂いたらよいか。どういう信心をさせて頂いたら、私は、ね、あの世、先の世を有り難いものとして、ね、もちろん、この世でも有り難いものとして、いわば、神徳、人徳を兼ね備えていけれる、ね、その徳があの世にも持っていけれるんだと自信を持って、信念を持って、いわば、死に向かって進んでいけれる。()ときに、ね、ね、ほんとに、これを持っていけれる安心がです、あー心やすしということにもなるようなおかげを頂いていく、信心。教祖様が、人間は生きておる間が修行中じゃ」と、その生きておる間が修行中じゃとおっしゃるようなですね、いわゆる、生き方なんです。私はそういう生き方からですね、うーん、その、有り難いものが生まれてくるんだと思うんです。
 昨日、一昨日です、椛目の宮崎さんが夜のうちに参ってみえてから、お届けされるんです。今、ちょうど奥さん、ずっと具合が悪くて、休んでおられます。もう(?)が始まろうというのに、いー、いわば、難儀な事なんです。ですから、もう、その、おー、けれども先生、おかげでですね、子供達が非常に、その、家内が休んでおるということに対してですね、えー、いわば、信心になっていくというか、生活が。ね。うーん。今日はあの、泉が学校から帰ってきて、泉君が今日も参ってきております。お父さんも参ってきておる。泉君は少年少女会で夕べからおかげ頂いているんですけどね、学校から帰ってきてから、「今日は僕は、先生から誉められた」と。友達からも(  ?  )誉められたと。どうしたけんやっち、(  ?  )今日は一日、僕はその信心に取り組んだというわけなんです。ね。勉強するとでも、例えば、お掃除することでも、いわゆる、陰日なたなしに、一生懸命働いたと。一生懸命勉強したと。そしたら、その今日は泉君は、えらい頑張りじゃないかというわけなんですね、先生が。友達も、その率先してやるもんですから、もう、小学校5、6年生ですか。だから今日は、先生からも誉められた、友達からも誉められたというて、帰ってきた。なら、お前、いつでん、そげん、うー、まあ、ずるけとったかという、いつでんこげんじゃなかったばってん、お母さんが具合が悪くなったから、僕は毎日、修行と思うて、勉強しよるっち。僕は、修行と思うてお掃除やら何でん、陰日なたのない、その、あーその、お掃除させてもらいよる。それをその、先生から認められた、いうなら友達から認められたというて、まあ、お父さんに話したと。そういうようなことが、いつの間に分かっていっておるのか、分からんですけれどもです、ほんとに今度の家内の病気を通して、娘も、おーそうでございますけれども、小さい、まだ小学校6年生の、おー、泉がそう言うて、申しますというて、御礼ごとを言われておりましたけれどもね。私はそういう生き方こそがです、一生が修行じゃという、いわば、あの、信心の修行だと私は思うんです。
 ね、これならば必ずです、ね、そういう例えば、あの、子供が親を思う一心が一念がです、神様に通わないはずがありません。同時にそういう生き方です、そういう行きかたならばです、先生からも友達からも信用されないはずがないです。ね、あの人たちは信心なしよってばってん、あげなことと言われるようなことがないのです。ね、いうならば、神徳、人徳を兼ね備えて頂いていけれる生き方だと私は思うのです。ね、それを修行と思うてと、こう、言うてある。信心させて頂くものはです、すべてのことがです、ね、してみるとです、降ることも照ることも、例えば自分には都合の悪い、痛いとか苦しいとかということもあろうけれどもです、そのことも修行と思うてという生き方なんです。ね、お母さんが病気しておることは、そりゃ困ったことだけれども、その、お母さんの今度の病気によって子供達が信心になっていくということなんだ、それが有り難いのだと。してみると、お母さんの病気もまた、それは、なるほど、苦しゅうあろうと、お母さんは。けれども、それより( ? )たものをここには頂いていきよるという、生き方だ。(せき)
 そういう、私はね、生き方がいよいよ身についていくということがです、実意丁寧神信心というのではなかろうかと、こう思う。ね。そういう実意丁寧神信心の生き方の中からです、教えられ、また、体得させて頂けるものはです、なるほど、日をお照らしなさる日に、良い日悪い日はないと思えと、すべてのことが、有り難いのだと分からしてもらえる。頭が痛いのも、生きとる証拠だなんと言うのもじゃなくてです、そういう生き方、そういう考えをです、もう、そこでは死ぬるということを、を、悲しいものだ、嫌なものだとしておるから、いよいよ、死の恐怖というものは募るばかりである。ね、いうならば、生きることも死ぬることもおかげだと分からして頂けれる信心が、そういうささやかな日常生活の中からです、積み重ねられていくところにです、あれもおかげ、これもおかげと分からしてもらえる信心。ね、そこには、日柄を見るにも及ばない、いらない、必要ではない、ね、家相を見る必要もない。ね。自由自在な自由無碍な生活がそこにある。ね。
 65節、読ませて頂きますとその通りのことでございますから、皆さんの生活の中で、もし、ここに現れておるようなことがあるとするならですよ、まだ、金光様の信心をしよっても、日柄を見たり、家を建てるにも、やはり家相を一つ調べて見たりといったような、間違った考え方を根本的に、一つひとつ取り除いていって、ね、(自由万事?)日々というか、ね、日々が有り難いのだというところをこのみ教えから分からして頂くと同時に、今日私が申しました、ね、これを一つの例としてです、ね、これをお互いの信心生活の上に当てはめてみるとです、今日私が申しました、うーん、信心の究極のところ、ね。生きても死にても天と地は我が住みかと本当に実感して、思えれるようなおかげを頂くために、ね、生きても死んでも神様のお世話にならんわけにはいかんのだと。
 「現世をおえて 神のみ府に参らん時には 必ずしも迎え取りたまえ」というて御霊様を拝むでしょう、皆さん。ね、それがもう、淡々として、淡々として、私は唱えられる、思えれるおかげを頂かなんいかんとです。ね。あーして皆さんは、(  ?  )おられるんだけども、ああ、(笑う)ね、なら、ね、御霊様が明日も(  ?  )くるぞといわっしゃったら、ちょいと待ってください、待ってくださいと(        ?         )です。「現世をおえて 神のみ府に参らん時には 必ずしも迎え取りたまえ」。私がもしこの世から、そちらの方に参ります時には、必ずお迎えをお願いしますというてお願いしよる。ね。そちらのことは( ? )でございますから、どうぞ導いてくださいというてお願いしよる。うん。それで、御霊様も承知しましたといわさるかもしれん、ね、それで、いよいよの時になると、ちょっと待ってくださいといったことのないようなね、おかげを頂きたい。いつ、いうならばお迎えを受けても、ね、「ああ、心安し」というて行けれるおかげを頂く、ここが信心のもう、ぎりぎりの私の現在の信心ではですね、もう、ぎりぎりのところだと、そこのところを、もう、心を開かしてもうらうということが、いうなら、生きても死にても天と地は我が住みかと思わしてもらえる、その生きても死んでも、あなたのふところである、そのふところの中にです、良いところ、悪いところがあろうはずがないって。ね、そこのところを一つ、分からして頂く信心にならなきゃいけん。
 ね、そこんところを分からして頂くために、お互いが神徳、人徳を頂けるような信心をしないけん。それには、泉君が毎日、今、最近体験しよる、そのこと。先生からも友達からも、ね、誉められたというようなです、生き方こそですね、私はそういうおかげの頂けれることだと。それが、実意丁寧いう、神信心とはそういうことだと。と、思うのです。どうぞ。
                                   大坪安子